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私と県立社高校野球部OB会

2009年10月23日天気は快晴。

 この10月17日に、久方ぶりに野球部OB会の宴席が開催されました。長きに渡り社高校野球部を指導し、選抜出場から、春の県大会優勝と近畿大会優勝と素晴らしい成績を残した森脇監督が勇退し、後任橋本監督の壮行と言うことでの宴席となりました。近隣のOB達(70数名)が集いました。

 私は約30年間ほどOB会に関わってきました。そこで私とOB会と言うことで塵埃記に残しておきたくなりました。OB会の歴史を知り得るところを記しておきたくなりました。

 社高校野球部は、昭和23年ごろに石ころだらけのグランドで、1回生の人達から始まりました。小さな田舎町に硬式野球部が誕生したのですね。町の商店街の人達の助けによって作られたことや、時の地元県会議員(石井さんだったと思う)の野球好きもありまして、瞬く間に強豪となり、10年後には、近鉄、阪神で活躍したプロ野球選手も地元商店街からでたことで、地域で大変な人気を得る野球部となりました。現在も地域で一番愛され、誇りにされているのが野球部ですね。

 私の現役時代(昭和40年代、16回生)までは、商店街の人達が後援会となり、野球部員が商店をまわって後援会費を頂いて、ボールや野球道具の補助費としていました。この後援会からOB会となって行ったのですね。

 私が30歳になったころに(昭和50年代)、社に舞い戻りまして亡父の家業を継ぐこととなりました。当時も後援会として、その中にOB会が存続すると言う形でした。後援会長もOBではなく、中村敏明県会議員でした。その補佐に、社高校野球部をこよなく愛した藤本さんと言う薬局を経営している方(社高校野球部の監督経験があり、当時は町会議員)がいました(二人は旧制小野中学卒)。この藤本さんと中村県会議員が、私に「後援会の世話を手伝いなさい」と命令されまして、後援会の中にあるOB会を会長として、お守りすることとなりました。
 
 あくまでも後援会ですので、必然的に中村県会議員の事務長的な仕事となります。藤本さんも町会議員です。私が政治の世界を知ることとなりました。長期(約7期)の県会議員で北播のドンと言われた有力代議士です。
 私も何度も選挙戦に携わることとなりました。OB会長と言うより県会議員の秘書と言った感じでした。

 その後、北播のドンも年齢に勝てずに県会議員を退かれました。後援会をどうすると言う話になりました。私は、「もうOBも沢山増えました。OB会を独立させましょう。」と藤本さんに進言しました。後援会は、自然消滅となりましたね。

 藤本さんと会社経営のOBと商店街での飲食店経営のOBが指揮系統の中心となってOB会を運営することとなりました。(昭和60年代から、平成初期)
 私の大先輩ばかりです。名は会長ですが、事務長でしたね。後輩の会計担当と二人で、事務的な運営を担当させていただきました。

 OB会にも人間模様でいろんなことがありました。しかし私は、継続こそが力なり、OB会が強大になる必要はない、OB達から送られてくる寄付金は、全額を後輩野球部の為にとの思いから、できるだけ会を小さく運営してきました。組織化して(出来なかったです)、OB会自体に経費を使うのをためらったと言うより、まだまだ寄付金額が小さく、野球部の手助けぐらいでしたから、私と後輩会計と二人で、OB会の経費なし状態でお世話するのが、一番長続きすると思いました。
 藤本さんも会社経営OBも、甲子園出場を見ずに他界されました。飲食店経営のOBも病に倒れられましたね。私と会計担当と二人で、細々ですが、OB会のお世話をし続けていました。

 その数年後の5年前に選抜出場です。その時の寄付金の多さも凄かったですが、寄付金や甲子園での手助け仕事に参加する若いOBの数の多さに驚きました。私と会計担当二人では、とてもOB会を切り盛りすることは不可能でしたね。身近な地元に後輩がいなかったこともありますが、先輩ばかりの選抜出場への、OB会運営は壮絶を極めました。親友の役場の職員(後に、我が町最後の町長となりました。)を動員しました。彼が事務的なことをやってくれなかったら、どうなっていただろうかと振り返るぐらいですね。

 選抜ベスト4と言う成績を残し、無事に甲子園行事が終わりました。あとの処理が残りましたね。重鎮達の「OB会への寄付金(一般の人達の寄付金は総て、OB会もほとんど学校に)は、一部を残しておけ・・」でしたが、私は極小に抑えました。「残務を誰がするんじゃ。」の思いがありましたからね。極小で正解でした。残った寄付金は、OBでもある森脇監督が使途を判断すれば良いと私が決めました。まあ、私は金にまつわるのが大嫌いでしたから、大正解でした。

 森脇監督(社高校野球部で、約22年間ぐらいでしょう)によって、県の強豪校であり続けた上に人気が高まり、沢山の部員がやってくるようになり、卒業生の数もどんどん膨れ上がり、OBの数は800人近い状態となりましたね。私がOB会長を受けた時には、150名ほどだったと思います。OB会の宴席を設けても、最大で15人が集まったぐらいでした。

 大変大きくなって来たOB会です。私はぼちぼち組織化しないといけないと思い出しました。グランド改修や甲子園出場記念碑等々と次から次へと、OB会が携わってゆきましたが、森脇監督に一任していまして、これも無事に完成祝いを済ませることが出来ました。野球部の成績も、春の県大会優勝や夏の大会ベスト4と言う、素晴らしい成績を残してきていました。

 私は、若いOB達から、「僕らが組織化してみます。」との声が出ないかと待ち焦がれていました。そこへ森脇監督から、「監督を後進に譲りたい。」との言葉を聴きまして、「よっしゃー、OB会長も一緒にじゃー。」と近隣の後輩達に告げました。
 ある晩に、OB会の件でと、近隣の後輩達数名が居酒屋へ私を呼んでくれました。私は、「森脇監督も50歳半ばになっている。もう教え子が社会で活躍している。OB会を組織化するのは、彼より年下の後輩がやるべきだ。」との意見を述べました。

 日を変えて、また居酒屋でOB会の件で後輩達と、今度は森脇監督を交えて話をしました。「森脇監督をアドバイザーとして、僕達が、OB会を組織化してみます。」と言ってくれました。「ただ、一挙に会長まで退かれると、僕達は若すぎます。名前だけは、暫く残してください。」との懇願でした。
 会長、副会長、事務長、役員、顧問(アドバイザー)と確りと名前が記してあるメモ帳をみまして、「ああ、これで二人だけでお世話してきたOB会が大きく成長するだろう」と了承しました。
 私は、「名前だけだぞ、今度の宴席の準備も一切タッチしない。また私に一言も相談はいらない。君達のやりたいようにやりなさい。」と名前だけの会長に昇進しました。

  私がお世話をしてきたOB会から、やっと若い後輩達がOB会に携わってくれるようになりましたね。これで大きく発展してくれると思いますね。野球部誕生から丁度60年を超えたところですね。OB会も実質的には30年になろうとしていますね。この前の宴席での若いOB達の自己紹介を聴いていますと、各地で素晴らしい社会人になって活躍している兵(つわもの)ばかりでした。これで安心と言うより、会長も若い人達が引き継ぎ、私は重鎮の仲間入りをしたいですね。

 正確な年代を記せないですが、私の頭の中にある社高校野球部OB会の歴史を綴りました。これに肉付けできる草創期のOB達がぼちぼちと欠けて行きだしました。私もですが、老いたOB達と野球部の歴史の話をする宴席を設けるのが、私のOB会としての次の仕事となったかもですね。

 私は、草創期(約15年)、色々ありながら期、森脇監督期(約20数年)が、県立社高校野球部の今までの歴史の骨格だと思いますが、終わりがないですね。夏の甲子園出場に向かう野球部、またOB会と言うことで、どんどんと素晴らしい歴史を積みかせねて行くでしょうと結んで、閉じることにしましょう。

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コメント

呑気様 こんにちは
これまで呑気様とのお付き合いの中で、野球部OB会の流れの輪郭はそれとはなく、承知していましたが、こうして一本の線にまとめていただくと、とても判り易くなりますね。
御母校の野球部が今後ますます栄えますように、お祈りします。
また、呑気様にはこれからは、一段ステップアップしたところで頑張っていただきたいですね。

おらが街の、野球部は何時までも変節することなく生き抜いて欲しいですね。

投稿: ぶちょうほう | 2009.10.24 12:25

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